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想いと行動と実現化

  • 4 日前
  • 読了時間: 11分

前回の記事がPCの操作ミスで文章がごっそりと削除された状態でUPされてしまいました。もう一度修正をかけていて、今夜中に完了する予定です(←修正済みです!) このところ、昔のことを次々と思い出します。ちょうど祇園祭が始まった頃だったからでしょうか。夏のほとんどを京都で過ごすことが多かったせいか、また一つ、京都にまつわる記憶が蘇りました。


その記憶をたどるように何気なく調べているうちに、私はこれまで知らなかった事実にたどり着きました。その事実を知った時、強烈な驚きで身体が震えました。数日間、驚きが収まらず、思わず京都へ電話をしてしまったほどです。


その時、私の頭の中はこうでした。

はああああああ!?

なんという行動力なんだ!!

なんと図太いんだろうか!!!


ここで言う「図太い」は、もちろん悪い意味ではありません。誰もやったことがないことへ真正面から飛び込み、相手が誰であろうと、必要なら話をしに行く。その肝の据わり方に対する、私なりの最大級の褒め言葉です。叔父は、あまりにも肝が据わりすぎています。


私はこの衝撃を、どうしても文章に残したくなりました。そして叔父と話をする中で、頭の中にあるイメージを現実の形にするためには、やはり行動が必要なのだと、改めて感じました。


本当なら、このようなテーマを書く時には、さまざまな人の体験談を集めたほうがよいのかもしれません。しかし、私は他人の人生について、細かな事情まで知っているわけではありません。ですから今回は、私の身近にいる人物の話を書かせてもらいます。


京都に住む叔父は、とにかく熱量の大きな人です。そして、超怖いです。武術に長け、全身から武士のような空気を放っています。それも、その怖さに拍車をかけているのかもしれません。玄関に本物の長い日本刀を飾っており、泥棒が襲いかかって来たら「正当防衛やからな」と、それで斬るように言われていました笑。そんな叔父は歴史に非常に詳しく、とりわけ新選組を熱烈に敬愛しています。


京都の平安神宮へ行かれたことはありますか?平安神宮では毎年、京都三大祭の一つである時代祭が行われます。各時代の衣装を身につけた人々が行列を作り、京都の歴史を表現する壮大なお祭りです。


しかし、その時代祭には新選組が登場しません。叔父たちは、幕末の京都を語る上で欠かすことのできない存在である新選組が、なぜ時代祭に含まれていないのかという悔しさと疑問を抱きました。


「それなら、自分たちで新選組の存在を伝えよう」

その思いが、後の活動の原点になりました。


京都には、平安神宮をはじめ、叔父との思い出がたくさんあります。その中でも忘れられないのが、本物の新選組隊士が実際に身につけていた鎖帷子を、叔父に見せてもらったことです。鎖帷子とは、細い鉄の輪をつないで作られた防具です。


叔父が見せてくれた鎖帷子には、首から肩、お腹にかけて大きな血の跡が残っていました。その血が返り血だったのか、それとも身につけていた人物自身の血だったのかは分かりません。ただ、目の前にあるものが本当に幕末を生き抜いてきたのだと思うと、本物だけが持つ生々しさに息をのみました。それまで本やドラマの中にいた新選組が、突然、現実の人間として迫ってきたように感じたのです。


毎年7月、京都では祇園祭が行われます。祇園祭は京都の夏を代表する祭りで、その起源は平安時代にまでさかのぼり、疫病や災厄を鎮める祈りから始まったとされています。その祇園祭の宵山にあたる7月16日、新選組の隊服を着た人々が京都の街を歩く光景を、目にしたことのある方もいるかもしれません。


私も子どもの頃、学校を二度ほど休み、その姿を見に行きました。7月16日はまだ終業式前です。普通に学校へ通っていれば、見ることはできません。しかし当時の私は小学生でした。叔父がなぜ祇園祭の時期に新選組の隊服を着て京都の街を歩いているのか、その意味はまったく分かっていませんでした。


少し歴史を知るようになってからは、「池田屋事変と関係があるのかな」と思うようになりましたが、それ以上深く調べることはなく、そのまま何十年も過ぎました。私はずっと、祇園祭には昔から新選組が参加することになっていて、叔父は新選組に詳しいから、毎年そこへ呼ばれているのだと思っていたのです。


ところが2026年7月、ニュースで「12年ぶりに新選組が参列した(道路の関係上しばらく参列できなかったらしい)」という話題を目にしました。その時、ふと疑問が浮かびました。「そもそも、なぜ祇園祭の時期に新選組が出るのだろう」調べてみると、1864年7月16日に京都で池田屋事変が起きていたことを知りました。しかし、そこでまた新たな疑問が生まれます。


祇園祭は疫病や災厄を鎮めるための祭りであって、新選組の慰霊祭ではありません。では、新選組は、どのような経緯で祇園祭の時期に京都を歩くようになったのでしょうか。


さらに調べていった私は、驚きの事実にたどり着きました。祇園祭の時期に新選組が京都の街を歩く流れを作ったのは、叔父だったのです。1976年、昭和51年のことでした。ちょうどその年の夏、幼い私も京都に滞在していました。うっすらと、祇園祭の記憶があります。しかし私は、その事実を2026年になって初めて知りました。50年間、知らなかったのです。


叔父は、昔からある行事へ呼ばれて参加していた人ではありませんでした。現在まで続くその流れを、仲間たちと一緒に、何もないところから作った側の人間だったのです。その瞬間、それまで京都で経験してきた出来事が、一気につながりました。


電話口の叔父からは「知らんかったん!? なんでや? 言うたと思うで?」と、逆に驚かれました。


改めて叔父から当時の話を聞くと、私の驚きはさらに大きくなりました。新選組は幕末の京都で大きな役割を果たしたにもかかわらず、公の歴史の中では十分に評価されていない。それなら、自分たちで伝えよう。叔父はそう考え、仲間たちに声をかけて、すぐに行動へ移したそうです。


今では、新選組は幕末を代表する存在の一つとして広く知られ、京都を訪れる多くの人が、その足跡や物語を楽しんでいます。しかし、叔父たちが活動を始めた当時は、今とはまったく状況が違っていました。


明治以降の京都では、新選組は新政府に逆らった側であり、人を斬った集団でもあるという見方が根強く残っていました。そのため、新選組をおおっぴらに評価したり、顕彰したりすることには、少なからず逆風があったそうです。


新選組は、ただの悪者や人斬り集団ではない。彼らもまた、幕末という激動の時代に、自らの信念と「誠」を貫こうとして命を懸けた、歴史の当事者だった。叔父たちは、そのことを京都の地から伝え始めたのです。


現在では、歴史上の人物の衣装を身につけて歩くイベントや、市民が参加する歴史パレードは珍しくありません。しかし、1970年代は違いました。歴史上の人物の衣装を身につけて街を歩くという文化そのものが、まだほとんど存在していなかったのです。しかも、その舞台は京都の祇園祭でした。


祇園祭は869年に始まったとされる、千年以上の歴史を持つ八坂神社の祭礼で、日本三大祭の一つです。京都の人々が長い年月をかけて守り続けてきた、格式ある伝統行事でもあります。


そのような祭りに、新しくできたばかりの民間の同好会が、新選組の隊服を着て京都の街を歩きたいと考える。そして、それを実現するために、警察や寺院、地域の人々のもとへ交渉に行く。私には、この発想そのものがまずありません。普通なら、「そんなこと、できるわけがない」そう思ってしまうでしょう。


ところが叔父たちは違いました。警察署や関係機関と交渉を重ね、前例のなかった「池田屋事変記念パレード」を実現させたのです。しかも、それは伝統を壊そうとしたのではありません。千年以上受け継がれてきた祇園祭を尊重した上で、その歴史の中に、新しい文化をつなげる道を探したのです。


ちなみに、警察署長の部屋に通された際には、壁に新選組の隊服が飾られていたそうです。当時の署長は新選組を敬愛していた方で、快く許可を出してくださったと聞きました。


余談ですが、コワイのは、祇園祭に参加できると決定した時に、二条城の向かいのホテルに仲間と集まり、新撰組の隊服を着て、筆で書いた誓約書に、それぞれが小刀を使って血判を押したというエピソードです。「えーーっ!朱肉じゃダメだったの?」と私は思わず言ってしまいました。でも、叔父はまさにそういう人です。もうホント、武士が乗り移っているんじゃないかと思うほどです。


話を戻しますが、その活動は、一度きりの思いつきでは終わりませんでした。叔父たちは、ただ言葉で新選組の名誉を訴えただけではありません。壬生寺をはじめとする新選組ゆかりの寺院で、隊士たちの供養や法要に長年誠実に関わり、「新選組隊士等慰霊供養祭」をはじめとする行事を支え続けています。


壬生寺は、新選組ゆかりの地として全国的に知られる、いわば新選組最大の聖地です。そうした歴史ある寺院から、民間の歴史愛好家の団体が、法要や公式行事を支える存在として認められ続けることは、決して当たり前のことではありません。それは、長年にわたって寺院や地域との信頼関係を築き、一つひとつ誠実に活動を積み重ねてきたからこそ得られたものなのだと思います。


そうした草の根の活動を続けるうちに、京都の人々や歴史に関わる人たちの間にも、新選組を「京都の歴史文化の一部」として堂々と語り、大切にしてもよいのだという理解が、少しずつ広がっていきました。


叔父たちが変えたのは、目に見える行事だけではありません。それまで京都に流れていた、新選組を顕彰することへのためらいや抵抗感。その「空気」そのものを、長い時間をかけて変えていったのです。


その活動は、近藤勇や土方歳三をはじめとする隊士のご子孫や関係者にも知られるようになりました。新選組の評価がまだ決して高くなかった時代から、京都の地で隊士たちを弔い、その生き方や名誉を見直すきっかけを作り続けてきた人々として、叔父たちは深い感謝を寄せられる存在になっていったそうです。


今では、全国から多くの人が京都を訪れ、壬生寺や池田屋跡などを巡りながら、当たり前のように新選組の歴史や物語を楽しむことができます。しかし、その当たり前は、最初から存在していたわけではありません。逆風の残る京都で、新選組の「誠」を堂々と語り、隊士たちを顕彰できる土台を、叔父たちは何もないところから守り育ててきたのです。


私はこの話を聞いた時、単に「なんて大胆な人なんだ」と思っただけではありません。心の中にあった一つの思いが、現実の世界で少しずつ形になっていく過程を見たような気がしたのです。


人は、何かを思うことはできます。「こんな世界になったらいいな」「こんな文化があったらいいな」「こんな会社を作りたい」「こんな作品を残したい」そんな思いは、誰の心にも生まれます。


しかし、思っただけでは現実は何も変わりません。頭の中にある間は、それはまだ自分だけのイメージです。そのイメージが初めて世界の一部になるのは、行動した時です。


叔父たちも最初から、「京都に新たな文化を作ろう」と考えていたわけではなかったでしょう。新選組が好きだった。京都の人々に新撰組の本当の姿を知って欲しかった。ただ、その思いに従って一歩ずつ動き続けた。警察へ足を運び、人に会い、寺院と話を重ね、多くの人と信頼を築いていく。その積み重ねが、やがて新しい文化になりました。


文化とは、誰かが最初の一歩を踏み出した結果、生まれるものなのだと思います。だから私は、「行動すること」は、単に何かを実行することではないと感じています。


それは、自分の内側にある思いへ形を与えることです。目には見えなかったものが、少しずつ現実の中に姿を現していく。私は、その営みそのものが「創造」なのだと思います。


芸術もそうです。会社を作ることもそうです。家族を築くこともそうです。一冊の本を書くこともそうです。誰かを大切に思い続けることもそうでしょう。どれも最初は、誰にも見えない心の中の思いから始まります。そして、その思いを行動へ移した時、初めて世界は少しだけ変わります。


私は長年、心理学やスピリチュアルについて学んできました。その中では、このように内側の思いが現実へ姿を現していくプロセスを、「受肉」と表現することがあります(キリスト教)私はこの考え方が好きです。ただ、それは特別な人だけに起こることではありません。私たちは毎日、小さな創造を繰り返しています。


誰かに声をかけること。文章を書くこと。料理を作ること。花を植えること。仕事を始めること。その一つひとつが、自分の内側にあるものを現実へ送り出す行為だからです。


だから世界は、最初から完成されたものではありません。私たちは日々、自分の内側にあるものを、さまざまな形でこの世界へ送り出しています。そんな創造が、実は私のすぐ近くにもありました。


私は今回、そのことを50年越しに知りました。子どもの頃の私は、叔父が毎年新選組の格好をして歩いている人だと思っていました。しかし本当は、叔父は何もないところから新しい文化を生み出していたのです。


私たちが当たり前だと思っているものも、最初からそこにあったわけではありません。誰かが思い、誰かが動き、誰かが諦めなかった。その積み重ねが、やがて文化となり、伝統となって、次の世代へ受け継がれていくのです。


そして改めて思います。人は、自分の人生を形づくっていくことができます。世界を変えようと肩肘を張る必要はありません。目の前の小さな一歩が、いつか誰かに受け継がれる何かになるかもしれない。そう思うと、今日という一日も、少し違って見えてきます。


思いは、行動して初めて形になります。

私は、これからもそんな「創造」を大切にして生きていきたいと思います。 END

 
 
 

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