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エゴって、本当に自分勝手なこと? ブッダの教えから考えてみる。

  • 3 日前
  • 読了時間: 11分

最近更新しているブログ記事は、3〜4年前から書き溜めていたものを放置していたものです。このところは時間を作れた時に、少しずつ書き足していました。今日はエゴについての話を完成させましたが、後日、この内容を今度は脳科学の観点からも見てみた記事も続きます。(なお、投稿は予約によって自動で行われています。)


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エゴという言葉は、日常では「自我が強い」「わがまま」「自分中心」といった意味で使われることが多いですが、実際はちょっと違う。もう少し広い意味があるのです。ブッダの教えと重ねて考えると、エゴとは何なのかが少し見えやすくなります。


私たちは普段、「自分」というものが確かに存在していると感じています。「私は現実的な性格だ」「私はちょっとドライなところがある」というように、自分についていろいろなイメージを持っています。私はこういう過去を持ち、こういう考え方をする。これが好きで、これは嫌い。こういう扱いを受けたいし、こういう人生を送りたい。もちろん、日常生活を送るうえで、この「私」という感覚そのものは必要です。問題になるのは、その「私」をあまりにも固定されたものとして捉え、そのイメージを頑なに守ろうとする時です。


たとえば、「私は人から大切にされる人間だ」「私は能力がある」「私は成功する側の人間だ」といった自己像を持っていたとします。そこに、自分のイメージと合わない出来事が起こると、私たちは強く反応することがあります。誰かに軽く扱われた、失敗した、思ったような評価が得られなかった、自分より成功している人を見た、自分の意見を否定された。実際に起こった出来事はそれだけなのに、心の中では「私を軽く見た」「私の価値を否定された」「私は負けた」「私は認められていない」「この人は私を分かっていない」と、次々に意味が付け加えられていきます。私たちは出来事そのものよりも、「その出来事が自分にとって何を意味するのか」によって、気持ちが変わります。


エゴを、例えば「自分を偉いと思う心」や、「横柄さ」、「自分勝手さ」のようなものだけだと考えると、こうした仕組みは見えにくくなります。むしろエゴとは、「私はこういう人間だ」「私はこう扱われるべきだ」「これは私のものだ(だから私の期待通りであって欲しい/持つことで私の価値が上がる)」「これは私に必要だ(これがないと自分の価値が下がる等)」「これは失ってはいけない(失うと傷つく)」といった、自分を中心に作られた考えやイメージを維持しようとする働きとして捉えると、分かりやすくなります。


そして興味深いのは、こうしたエゴから生まれる心の動きは、自信がある人だけに起こるものではないということです。自信がない人にも同じように起こります。「私はダメな人間だ」「私はどうせ愛されない」「私は運が悪い」「私はいつもうまくいかない」「私は人より劣っている」といった自己否定も、「私はこういう人間である」という強い自己像です。「私は特別だ」という考えと「私は価値がない」という考えは、一見すると正反対ですが、どちらも「自分はこういう人間だ」と自分を決めつけ、その自己像を通して現実を見るという点では似ています。


ここからブッダの教えを見ると、エゴについてさらに深く考えることができます。仏教では、人間の苦しみの原因のひとつに「無明」があるとされます。無明は、単に物事を知らないという意味ではありません。もっと根本的に、物事のあり方を十分に見抜けず、自分の思い込みや見方を、現実そのもののように捉えてしまう状態も含まれています。


私たちは世界をそのまま見ているつもりでも、実際には、執着を伴って何かを求める気持ちや恐れ、過去の経験、期待、思い込みなどを通して出来事を解釈しています。ブッダの教えには「欲望」と訳される言葉も多く出てきますが、何かを望む気持ちすべてを否定しているわけではありません。ここでは分かりやすくするために、執着を伴わずに何かを望む気持ちは「欲求」と表現します。ちなみに、何かを望む気持ちや恐れ、期待や思い込みなどが生まれること自体を、良いもの、悪いものと考える必要はありません。


同じ言葉を聞いても、何とも思わない人もいれば、深く傷つく人もいます。言葉そのものだけでなく、それをどう受け取ったかが違うからです。つまり私たちは、外の世界だけを見ているのではなく、自分の心が付け加えた意味も一緒に見ています。「無明」には、このような「自分の見方を、そのまま現実だと思い込むこと」も深く関わっています。


そこから「もっと欲しい」「失いたくない」といった心の動きが生まれます。仏教では、こうした強い欲求を「渇愛」と呼びます。単に何かを望むことではなく、「これがなければ満たされない」「もっと欲しい」「手に入れたものを失いたくない」と強く求め続ける状態です。そして、その対象や考えを「これは私のものだ」「これを失いたくない」と強く握るようになると、さらに執着が深まっていきます。


もちろん、お金を望むこと自体が悪いわけではありません。より豊かに暮らしたい、選択肢を増やしたい、安心できる生活をしたいと思うことは自然なことです。お金をたくさん持ちたいと思うこと自体にも、「良い」「悪い」という意味はありません。


例えば、お金そのものは生活や選択肢を広げるための道具です。しかし「お金があれば安心できる」「お金が少なければ自分には価値がない」「この金額まで持たなければ成功したとは言えない」といった意味を結びつけると、お金は単なる道具ではなくなります。自己価値を証明するもの、不安を消してくれるもの、エゴと結びついた「自分はこういう人間だ」というイメージを支えるものになっていきます。そうなると失うことが怖くなり、増えればさらに欲しくなり、人と比べたり、思い通りに増えないことに焦ったりするようになります。


その時に苦しみを大きくしているのは、お金そのものだけではなく、自分がお金に結びつけている考え方でもあるのです。もちろん、お金を持つことや求めること自体に、良い悪いという意味はありません。ここで見ているのは、お金そのものではなく、そこに自分がどんな意味を結びつけているかという部分です。


人間関係でも同じことが起こります。「この人が好き」という気持ちと、「この人に愛されなければ私は満たされない」という状態は同じではありません。相手を好きであることは自然な感情ですが、そこに「相手に選ばれることが自分の価値の証明になる」という意味が加わると、関係の性質が変わります。


「選ばれれば価値がある」「選ばれなければ価値がない」と考えるようになると、その恋愛は相手との関係であると同時に、自分の存在価値を確認する場所にもなります。そうなると失うことが怖くなり、相手をコントロールしたくなったり、相手の行動の一つ一つに必要以上に揺さぶられたりします。仏教が説いてきたのは、このように「私」と「私のもの」に心が強く結びつき、そこから苦しみが生まれていくという仕組みです。


さらに仏教には「無我」という考え方があります。無我は「自分など存在しない」という意味ではありません。私たちには身体も名前も人格もあります。ただ、それらはどれも時間の経過とともに変わり続けています。身体は変化し、感情も考え方も変わります。好き嫌いも、人間関係も、価値観も変わります。十年前の自分と今の自分では、同じ部分がありながら、まったく違う部分もあるでしょう。


それでも私たちは「これが私だ」「私はこういう人間だ」と自分を定義づけて、そのイメージを守ろうとします。それを否定されれば腹が立ち、思いがけず負ければ悔しく、失敗すれば恥ずかしく、評価されれば嬉しくなり、認められれば安心する。私たちは現実の出来事そのものだけでなく、「自分について持っているイメージ」が傷ついたり満たされたりすることで気持ちも大きく揺れ動きます。


ブッダは人間の愚かさについても説いていますが、ここでいう愚かさは、単純に頭が悪いとか、知識が少ないという意味ではありません。むしろ、自分が執着を伴う欲望や怒り、恐れなどに動かされていることに気づかず、それをそのまま正しいものとして捉えてしまうところなどに、その愚かさが表れるということです。


渇愛、つまり執着を伴う欲望に突き動かされているのに「これは自分が本当に望んでいることだ」と思う。怒りそのものではなく、相手を責めたい、傷つけたい、排除したいといった気持ち(執着、敵意)を伴う怒りに支配されているのに「私は正しいから怒っている」と思う。


相手を失いたくない、思い通りにしたいという執着があるのに、「これは愛だから手放せない」と考える。不安や不足感を埋めるために何かを強く求めているのに、「これは純粋な夢だ」と思う。自分が思っている「私はこういう人間だ」というイメージを守るために相手を否定したり、自分を正当化したりしているのに、「私は事実を言っているだけだ」と思う。こうした時、人は外の世界ばかりを見ていて、自分の心の動きが見えなくなっています。


逆に言えば、仏教でいう智慧は、知識をたくさん持つことだけではありません。自分の心が今、何をしているのかを見ることでもあります。「いま私は腹を立てている」「認められたいと思っている」「失うのが怖い」「自分の正しさを守ろうとしている」「これがなければ幸せになれないと思い込んでいる」。そうして自分の内側で起きていることを少し離れて見ることができると、自分の中にあるエゴとの関係も変わってきます。


感情や欲望が消えるわけではありません。そして、感情や欲望を持つこと自体に、良いも悪いもありません。ただ、「欲しい」と「絶対に必要だ」の間には少し距離ができます。「腹が立つ」と「だから相手を攻撃しなければならない」の間にも距離ができます。「失いたくない」と「失ったら私は終わりだ」の間にも距離ができます。この距離があることで、感情や欲望のままに動くのではなく、自分で行動を選べるようになります。


「私は怒っている」と思った時に、「いま怒りが起きている」と捉えてみる。「私は不安だ」ではなく、「いま不安を感じている」。「私は失敗した人間だ」ではなく、「失敗したことで、自分を否定する考えが出ている」というように、少し捉え方を変えてみる。こうすると、「自分そのもの」と「自分の中で一時的に起きていること」が、少しずつ分かれてきます。


これはエゴを消すということではありません。エゴの働きに気づくということです。「私は絶対に正しい」という気持ちが出てきた時にも、「いま私は、自分の正しさを守ろうとしているのかもしれない」と考えられる。「もっと欲しい」と思った時にも、「本当にそれが必要なのか、それとも何か足りない感覚を埋めようとしているのか」というように捉えることができます。


そうすると、何かを強く求める気持ちの奥にある、別の気持ちが見えてくることがあります。ここでいう「何かを強く求める気持ち」とは、執着を伴う強い欲求のことです。認められたい、安心したい、自分に価値があると思いたい、失いたくない、自分が間違っていたと認めるのが怖い。これらが強い執着と結びついたとき、苦しみにつながる欲望になります。


私たちが求めているものすべてが、表面に見えている対象や事象そのものとは限りません。その対象や事象を手に入れることで、別の何かを感じようとしている場合もあります。


例えば、結婚そのものを求めているようで、その奥には「周りが結婚しているから自分も結婚しなければ」「結婚して家庭を持ってこそ一人前だ」「独身のままでは取り残される気がする」「今の家庭環境や孤独、不安から逃れたい」といった気持ちが隠れていることがあります。こうした気持ちには、「周囲と同じでなければならない」といった「思い込みによって作られた自己像」が関係していることもあります。そうしたとき、結婚そのものだけを求めているというより、「自分はこうあるべき」という考えに、自分を合わせようとしていることもあります。


また別の例では、有名になりたいと思っていても、求めているのは有名になることそのものではなく、多くの人に認められることや、自分には価値がある、特別な存在であると感じることだったりします。


そして、そうした背景には「こういう私でいたい」「こういう私であってはいけない」という観念や、そこから生まれる自己像や思い込みがあります。


だからエゴを理解することは、「自我をなくすこと」とは少し違います。それよりも、「私はいったい、どんな自分を守ろうとしているのだろう」と見ていくことなのだと思います。そこに気づくと、誰かに必ず勝たなければならないわけではなくなります。全員に理解してもらわなくてもいい。失敗しても、自分そのものが壊れるわけではない。何かを失っても、「自分という存在」まで消えてしまうわけではありません。欲しいものを望むこともできます。ただ、それが手に入らなければ自分は不完全だ、とまで考える必要はありません。


ブッダの教えを、身近なことに置き換えてかなり簡単に表すなら、「自分がそう思っていることと、実際に起きていることを同じものだと思わないこと」と言えるかもしれません。人は、執着を伴って何かを求める気持ちや恐れ、過去の経験、自分について持っているイメージを通して世界を見ています。そして、その見方そのものに気づかない時、自分が作った見方を現実そのものだと思い、その中で苦しむことがあります。しかし、「これは事実そのものなのか、それとも今の自分がそう解釈しているのか」と考えられた瞬間、それまでとは違う見方ができるようになります。


エゴをなくす必要はないのだと思います。必要なのは、エゴによって生まれる考えを、そのまま真実だと思わないことです。そして、自分の思い込みや執着に気づける人は、その瞬間からすでに、思い込みや執着にのみ込まれにくくなります。「自分は分かっている」と思い込むよりも、「もしかすると私は、自分の心やエゴが作った見方を、現実そのものだと思っているかもしれない」と考えてみる。そこから、自分の心やエゴをより深く理解していくための智慧に繋がっていくのではないでしょうか。 END



 
 
 

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