人は、自分の中にあるものと出会う
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更新日:5 日前

私は、人生で繰り返し出会う「似たような方向性を持つ人たち」は、実は「自分の中にある方向性」を映し出しているのではないかと思っています。
もちろん、それは同じ職業や能力を持っているという意味ではありません。もっと深いところにある、ものの見方や、生き方の方向性のようなものです。人は、恋愛だけではなく、人生のさまざまな場面で、自分の中にあるものと響き合う人に出会うことがあるのではないでしょうか。
これは長い時間をかけて考え続け、さまざまな可能性を検討する中で、少しずつたどり着いた考えです。そのきっかけになったのは、私の周りには、偶然とは思えないほど、それぞれの分野で自分だけの道を築いていく人たちが何人もいたことでした。
なぜ私は、そのような人たちと繰り返し出会い、長い年月を経てもつながり続けてきたのだろう、と思っていました。皆さんの周りの人々はいかがですか。今まで、どのような人たちと出会ってきましたか。そして、なぜ出会い、つながり続けているのでしょうか。これは私のパターンではありますが、そこから考察してみたいと思います。
小学校、中学校、高校、大学時代の友人たちとは、今でも定期的に集まることがあります。何十年も付き合いが続いている人もいれば、しばらく会わないまま時間が過ぎ、数年ぶりに再会する人もいます。
その友人たちが、どのような道へ進んだのかは、20代の頃から知っていました。法曹の道へ進んだ友人、大学で教え始めた友人、文化財の保存修復に携わるようになった友人、ニュースなど報道の現場でリポーターを務めるようになった友人、料理人になった友人。当時は、「ああ、そちらの方向へ進んだんだね」と思いながら近況を聞いていました。
ですが、それから数十年が経ち、大学で教え始めた友人は教授になり、さらには学部長になっていました。法曹の道へ進んだ友人も、最高裁を経て検察庁の重要な部署で部長を務め、警察官向けに犯罪研究の執筆をしていると知りました。進んだ方向は昔から知っていましたが、その道を歩き続けた先で、そこまで責任のある立場に就いているとは想像していなかったので、本当に驚きました。
ですが、これは「私は大出世した人たちを知っています」という話ではありません。もしそれだけなら、ここに書く意味はないと思っています。
重要文化財の保存修復に携わっている友人が、東京大学で非常勤講師も務めることになったと知ったときにも驚きました。文化財修復が高度な専門分野であることは理解していましたが、友人が実務の世界だけでなく、その知識と技術を大学で教える立場にまでなっていたことに驚きました。「経験を積み上げて極めるというのは、すごいことなのだな」と改めて思いました。
料理人になった友人もそうでした。10代の頃、「将来は料理人か芸能人になりたい」と話していたことを覚えています。実際には料理人の道を選びましたが、その後、テレビやラジオ、雑誌など、さまざまなメディアで活躍するようになり、企業との調味料の共同開発や、デパ地下に店を構えるまでになり、ほとんど芸能人同然の状態になりました。
今振り返ると、「料理人か芸能人になりたい」という当時の夢は、どちらか一方を選んだのではなく、料理人という道の先で自然と重なり合ったように感じます。
とはいえ、それぞれが進んだ道が、私にとって意外だったわけではありません。若い頃に選んだ道を真っすぐ歩き続け、その先に現在の姿があったのだと思いました。そして同時に、「やっぱり、この人たちらしい」とも感じたのです。みんな昔から好奇心が強く、自分の考えを持ち、一つのことを深く掘り下げる人たちでした。
今の姿は、若い頃とは無関係な突然の変化ではありません。昔からその人の中にあったものが、長い時間をかけて育ち、あるいは本人が意識的に育て続けた結果、現在のその人を形づくっているように思えました。
その人たちのことを考えているうちに、私はふと気づきました。
「そういえば、私の人生には、こういう人が本当に多い。」
振り返ってみると、1人や2人ではありません。大学で長年、研究と教育を続けている友人。法曹の世界で経験を積み重ね、責任のある立場を任されている友人。文化財の保存修復という、簡単には代わりのきかない技術を磨き続けている友人。何十年も宇宙開発に携わり、宇宙線の分析をしている友人。料理一つひとつに真摯に向き合い続ける料理人。テレビの報道リポーターとして長年現場に立ち続けている友人。そして肩書とは関係なく、一つの技術や表現を何十年も磨き続けている友人。
友人だけではありません。親族にもいます。仕事を通して知り合った人の中にも多くいます。分野も職業も、活動している場所も違います。でも、一つだけ共通していることがありました。それぞれが、自分の人生を使って、自分だけの何かを育て続けているということです。
私はこの人々と同じ仕事をしてきたわけではありません。職業も肩書も、活躍する世界もまったく違います。それでも、話をしていると、根底に何か共通するものがあるように感じるのです。
このような経験を振り返るたびに、私は一つの疑問を持つようになりました。なぜ私は、そのような人たちと自然につながってしまうのか。なぜ人生を振り返ると、似た方向性を持つ人とのご縁が、何度も繰り返されているのか。
そして、それは私だけに起きていることなのか。私は、そうではないと思っています。誰の人生にも、不思議なくらい似た種類の人が繰り返し現れることがあります。仕事が変わっても、住む場所が変わっても、年齢を重ねても、なぜかどこかに共通した空気を持つ人と出会う。そんなことが、今までにありませんでしたか。
反対に、条件だけを見れば親しくなっても不思議ではないのに、どうしても深いところでは交わらない人もいます。私たちはそれを、「相性」や「価値観が合う、合わない」という言葉で表現します。もちろん、それも一つの答えでしょう。ですが私は、そこにはもう少し深い理由があるような気がしてなりませんでした。
そこで最初に考えたのは、「環境」の影響でした。人は、生まれ育った家庭や学校、周囲の価値観から大きな影響を受けます。何を面白いと感じるのか。どのような人と話が合うのか。何に価値を見いだすのか。その多くは、育ってきた環境によって形づくられます。
人は育つ過程で、自分の周りにある価値観や生き方を、自分にとっての「当たり前」として内側に取り込んでいきます。何を自然だと感じるのか。どのような人に親しさを覚えるのか。どのような生き方に安心し、どのような状態に違和感を持つのか。そうした無意識の基準が、少しずつつくられていくのです。
その基準は、大人になってからの人間関係にも影響します。人は、自分の内側にある感覚と似たものを持つ人に目を留め、親しさを感じ、関係を続けていきます。それが心地よいものであっても、苦しいものであっても、関係ありません。慣れ親しんだものほど自然に感じられるため、似たような人間関係や状況が繰り返されることがあります。
そう考えるなら、私がこのような人たちと繰り返し出会ってきたことも、まずは環境という視点から説明できるのではないかと思いました。
本来であれば、さまざまな人の人生を例にお話しできればよいのですが、私は他の人の人生を細かく説明することはできません。ですから、ここでは私自身の経験を例にお話ししたいと思います。
私自身、学ぶことや知ることを大切にする家庭で育ちました。先日、お客様のお一人が「教育は最も重要ですね」とおっしゃっていましたが、私も教育は、人生の土台となるとても大切なものだと考えています。
ただし、ここでいう教育とは、学校の成績や学歴だけを指しているのではありません。何を面白いと感じるのか。何に価値を置くのか。分からないことに出会ったとき、それを恥ずかしいと思うのか、それとも知りたいと思うのか。そうした世界との向き合い方を身につけていくことも、教育の一部なのだと思います。
私が通った小学校は、公立でしたが少し特徴的でした。4年生からは、朝、登校したらすぐに、先生方が受験対策用に作った問題集を2ページ解かなくてはなりませんでした。先生が来て挨拶をした後、すぐに答え合わせをするからです。それが終わってから授業に入ります。問題集には、塾に通っていないと解けないようなものも、ちらほらありました。
6年生では、公立中学校に進学する生徒は、1クラス40人中5人から10人程度で、難関校や名門私立中学校に進学する生徒もかなりいました。そのため、学区を越えて入学してくる生徒も多かったのです。
進学した公立中学校も、城南エリア全体の中で学力が高い学校でした。そのため、小中学校の9年間は、学ぶことや将来について真剣に考えること、自分の興味を掘り下げることが、周囲から浮いてしまうようなことではありませんでした。
子どもだった私は、それを特別な環境だとは思っていませんでした。子どもは、毎日接している人たちの感覚を、そのまま「世の中ではこれが普通なのだ」という基準として取り込んでいきます。今振り返ると、知ることを面白いと感じる人や、自分なりの目標を持つ人に親しさを覚える土台は、あの頃から少しずつつくられていたのかもしれません。
もちろん、環境だけですべてを説明することはできません。同じ学校にいた子どもたちが、全員同じ価値観を持つようになったわけではないからです。同じ教室で学び、同じ先生の話を聞いても、何に強く反応し、何を自分の人生の中へ持ち帰るのかは、人によって違います。
環境は、その人が何を「普通」と感じるかをつくります。しかし、その環境の中から何を選び取り、自分のものとして育てていくのかは、本人の内側にある性質とも関係しています。
私は、人が育った環境、家族から受け取った価値観、これまでに選んできた人間関係、本人が何を大切にし、どのように生きてきたのか。そのすべてが重なって、その人特有の「磁場」をつくるのではないかと思っています。
ここでいう磁場とは、何もないところから魔法のように現れるものではありません。その人が何を選び、どのような人と関わり、何を考えて生きてきたのか。その蓄積が、言葉や態度、選択、佇まいとなって外側に表れ、独自のエネルギーフィールドをつくっていくのだと思います。
そして、似た方向性を持つ磁場同士は、互いに気づきやすいのではないでしょうか。職業も年齢も、生きている世界も違う。それでも、ものの見方や、生き方の根底にあるものが似ていれば、なぜか目に留まり、話が通じ、関係が続いていくことがあります。
大人になってから仕事を通して知り合った人たちの中にも、一つのことを何年、何十年とかけて探究し、その分野で名前を知られるようになった方や、長年の経験を積み重ね、大きな責任を担う立場になった方が何人もいました。年齢も職業も、住んでいる場所も違います。それでも、どこかに共通する空気を感じました。
私は、それも磁場によって生まれた出会いなのではないかと思っています。人は誰とでも同じようにつながるのではなく、自分の中にある価値観や方向性と、どこかで響き合う人に気づき、互いの人生の中に入っていくのではないでしょうか。
そして、ここには心理学者ユングのいう「投影」という考え方も関わってくると思います。私たちは、相手をありのまま見ているつもりでも、実際には、自分の無意識にあるものを相手の中に重ねて見ていることがあります。相手のある性質が強く目に入ったり、その人の生き方に理由の分からないほど惹かれたりするのは、そこに自分自身のまだ意識していない価値観や可能性が重なっているからかもしれません。
私が友人たちの中に見ていたのも、社会的な肩書や評価ではありませんでした。自分の信じた道を長い時間をかけて育て、周囲に流されず歩み続ける、その姿勢そのものだったのです。
そういえば20代の頃、私は友人から「本当に我が道を行くよね」とよく言われていました。私自身も長年、人の相談を受ける仕事を続け、一つの問いについて深く考え続けてきました。職業や活動する世界は違っていても、一つのことを掘り下げ、自分なりの道をつくっていくという方向性は、私の中にもあったのだと思います。
この仕事を始めてから知り合った、ある著名なスタイリストの方に、「なんだか私たち、似ていませんか。姉妹のように感じるんですよね」と言われたことがあります。その方の紹介で来てくださった方々からも、「顔や容姿ではないけれど、なぜか似ていますよね」と何度も言われました。
何が似ているのか、誰にもはっきりとは説明できませんでした。その方も一つのことを追求し続け、自分なりの道をつくってきました。もしかすると、価値観や生き方は、言葉や表情、佇まいとなって、外側ににじみ出るのかもしれません。私が「波動」と呼んできたものも、その人が何を大切にし、どのように生きているのかが、言葉にならない形で表れたものなのかもしれません。
スピリチュアルな見方をするならば、エネルギーの質が似ていた、あるいは、もし過去生があるとすれば姉妹だったのかもしれない、と考えることもできます。ただし、それは証明できることではなく、私自身の感覚です。確かに言えるのは、外見の類似では説明できない何かを、私たちだけでなく周囲の人たちも感じ取っていたということです。
人が誰かに強く惹かれるとき、その反応のすべてが「相手と自分は同じだ」という意味ではありません。それでも、その人の何かに心が動いたという事実は、自分の内側を知る手がかりになります。
だから私は、人生で繰り返し出会う人や、長い年月を経ても関係が残っている人たちは、偶然に現れたまったく無関係な存在ではなく、自分自身がつくり出している磁場の中で出会った人たちなのではないかと思うようになりました。
私の周りに、一つのことを長く探究し、自分だけの道を築き続ける人が多かったのも、私自身の中に、どこか似た方向性があったからなのだと思います。
ただし、これは、私が彼らと同じ能力を持っているとか、同じような社会的実績を築いているという意味ではありません。職業も、才能の現れ方も、到達した場所も、それぞれまったく違います。
似ていると感じたのは、結果の大きさではなく、その根底にある性質です。一つのことを長く考え続けること。自分が関心を持ったものを深く掘り下げること。周囲に合わせるだけではなく、自分なりの道を選ぼうとすること。そうした方向性の一部が、私の中にもあったのだと思います。
そして、彼らがそれぞれの分野で経験を積み、その性質を仕事や役割や実績として外側に表すようになったからこそ、私は共通するものに気づきやすかったのかもしれません。
もし彼らが社会的に目立つ立場には進まず、普通の会社員として静かに働いていたとしたら、一人ひとりと長く話し、その人が何を考え、何を大切にし、どのような姿勢で仕事を続けているのかを知らなければ、同じ性質には気づきにくかったと思います。
もちろん、普通の会社員の中にも、深い探究心を持つ人、自分の考えを持つ人、一つのことを長く積み重ねている人はたくさんいるでしょう。ただ、その性質が外側から分かる形になっていなければ、周囲からは見えにくいものです。
私の周りの人々の場合は、内側にあったものが、長い時間を経て、社会の中で分かりやすい形になって表れていました。だから私は、「この人は昔からこういう人だった」「私が興味を惹かれていたのは、この部分だったのか」と、あとになって気づくことができたのだと思います。
つまり、私が見ていたのは、「出世した人」という共通点ではありません。彼らがそれぞれの道を歩き続けたことで、その人の中に昔からあった性質が、はっきりと見えるようになったということなのです。
だからこそ、私は彼らの中にあるものに強く反応したのでしょう。そして相手の側もまた、私の中にある何かを感じ取っていたのかもしれません。
私たちは、相手の中に見えるものを、その人だけが持っている特別な性質だと思いがちです。ですが、ある性質がなぜか強く目に入り、その人の生き方に惹かれ、長い間心に残り続けるのなら、それは自分の内側にも同じ方向性があるからかもしれません。
もちろん、相手とまったく同じ才能や能力を持っているという意味ではありません。自分の中にも、同じ方向へ向かおうとする力や、まだ十分に意識されていない可能性があるということです。
人は、自分のことを自分だけで知ることができるとは限りません。むしろ、人生の中で繰り返し出会う人や、なぜか強く惹かれる人、長い年月を経ても関係が残っている人たちの中に、自分自身の姿が映し出されていることがあります。
あなたの人生には、どのような人が繰り返し現れてきましたか。その人たちは、どのような生き方をし、何を大切にしているでしょうか。そして、あなたはその人の何に心を動かされてきたのでしょう。
あなたが相手の中に見つけたその性質は、本当にその人だけのものでしょうか。もしかすると、それはあなた自身の中にも、ずっと前から存在しているものなのではないでしょうか。
あなたは、そのことに気づいていますか? END



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