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私にやって来る、未来の断片

2023年11月29日
読了時間: 11分

更新日:8月10日


★この記事は2019年1月に「はてなブログ」で書いたものです。


引き続き、今も私のセンサーは、以前にも増してさらに鋭敏になっていっております。「以前にも増して」というのは、「2〜3ヶ月前よりも」ということなのですが、ほんの2〜3ヶ月で私のセンサーの質は、さらに繊細なものへと変化してしまっているようなのです。


そして、その変化が何だかとても速いように思えます。特にそれを感じるのは、プライベートにおいてです。セッションのように情報を拾おうとして、自分からセンサーを伸ばすようなことをしなくても、勝手に情報が私のところへやって来てしまいます。しかも最近では、それがまるで「自分自身に関する情報」であるかのような強さで入って来ることがあり、少しビビることがあります。


センサーが繊細な質へと変われば変わるほど、私はしっかりと自分自身のエネルギーをグラウンディングしなければならないと感じていますし、入って来た情報のエネルギーに負けないように、いつでも自分自身の「ど真ん中」にいなければならないと感じております。ここでいう「負けない」というのは、要するに、情報から必要以上の影響を受けないということです。


情報もまたエネルギーですので、それぞれに「質」というものがあります。明るく軽い情報もありますし、恐怖や苦しみを伴うような重たい情報もあります。その質によっては、受け取った側の意識まで引っ張られてしまうこともあるのではないかと思います。


ですから、私にとって大切なのは、「何が見えるか」ということだけではありません。むしろ、見えたものをどう受け止めるのか、その情報と自分との間にどれくらいの距離を置くのか、そして必要な場合には、それを現実の行動へどう落とし込むのかということの方が、年々重要になって来ているように感じています。


ところで、先日こんなことがありました。車で都内のあちこちに行かなくてはならない予定がある日の前日に、私の車と同じような色で、同じ車種の車が後ろからトラックに追突されているビジョンが見えました。それ以外にも、ミニバンのような車が横転しているビジョンや、ダンプカーのような大きな車が事故を起こしているビジョンが突然見えました。


こういうものは、動画のように長々と見えるわけではありません。ほんの一瞬です。何かの映像が、パッと目の前に差し込まれて来るような感じです。特に私と同じような色で同じ車種の車を見た時には、「え? もしかして私の車がこうなるの?」と思ってしまい、さすがにドキリとしました。


そしてその翌日、自宅から数キロ離れた所で、私と同じ車種で同じような色の車が、トラックに後ろから追突されているのを実際に見ました。その時に、「ああ、昨日見たビジョンはこのことだったんだ」と思いました。もちろん、同じような色で同じ車種だったということ自体は、単なる偶然だったのかもしれません。それでも私からすると、少しドキッとする出来事ではありました。


さらにその同じ日、小菅(足立区)の中央環状線を走っている時には、大きなダンプカーが壁にぶつかって横転しているのを見ました。そして帰り道には、戸塚でミニバンが横転しているのを見ました。前日に見えていたいくつかの映像を、その翌日に実際の光景として次々と目にすることになったわけです。


これらの事故は、直接的には私とは関係のない出来事です。けれども、私自身がその翌日にそれらを実際に目の前で見ることになったわけですから、まったく関連性がなかったとも言い切れないのかもしれません。もしかすると、宇宙から「今日は特に安全運転をしなさいよ」ということを促されていたために、あらかじめ見せられたビジョンだったのかもしれません。その答えは分かりません。ただ、このような感じで、日常の中に突然ビジョンが飛び込んで来ることは、私にとってそれほど珍しいことではありません。


そして、ここで私がいつも難しいと思うのは、情報が来た時点では、「これは誰についての情報なのか」「何についての情報なのか」が分からないことが多いということです。自分自身への警告なのかもしれない。身近な誰かに関するものなのかもしれない。これから自分が目撃する出来事なのかもしれない。自分が意識を向けている土地や場所に関することなのかもしれない。あるいは、もっと大きな社会全体の動きに関する情報なのかもしれません。


見えた瞬間には、その区別がつかないことも多いのです。ですから私は、ビジョンが見えたからといって、すぐに「これは○○が起こるという意味だ」と決めつけないようにしています。情報というのは、後になって現実の出来事と重なった時に、初めて「ああ、あの時のものはこれだったのか」と意味が分かることも少なくありません。


また、12月中頃だったと思いますが、私は夫に突然、「もっと警察だとか、何だかわからないけど、とにかく公の機関は、犯罪を起こした人などに対する監視を厳しくしなければならないね。今のままだと、海外へ逃げることのできる立場の人には簡単に逃げられてしまうよ。今後そういう人が出て来るかもしれない」というような話をしたことがありました。


その時には、パッと「逃げる」という図が目の前に見えたのです。ところが、その映像が何を意味しているのかはまったく分かりませんでした。そして年末になり、国外へ逃亡した「とあるお方」のニュースを見た時にも、私はそのビジョンのことをすっかり忘れていました。すると夫が、「この前言っていたことは、このことだったんじゃないの?」と言ったのです。


言われて初めて、「そういえば、そんなことを言った」と思い出しました。これも、もちろん偶然なのかもしれません。ただ、このように私自身とは直接的な関連性がないように思えるビジョンも、本当に頻繁に入って来ます。


他にも色々とありました。インパクトが強く、今でも覚えているものの一つに、数年前に起きた尼崎市の線路沿いでの火事があります。これは起きている時に見たのではなく、夢の中で見たビジョンでした。しかも、その周辺の地理まで夢の中で見ていました。坂があること、広い通りがあること、近くに大学があること。そういった、その土地の雰囲気まで含めて見ていたのです。


私はその場所とはまったく関係がありませんでしたので、なぜそのような情報が私のところに来たのか、今でも分かりません。それ以上に私とは関連性がない事柄として、英国で騒ぎになったMEGXIT(メグジット)の件についても、11月の時点で夫に話していたことがありました。


このように、私のところへ来る情報には、自分自身のことだけではなく、社会でこれから表面化して来る動きのようなものまで混ざっていることがあります。ただし、私はそれを「未来がすべて分かる」という意味には捉えていません。むしろ逆です。情報の断片だけが先に来て、それが一体何を意味しているのか分からないことの方が多いのです。だからこそ、見えるということと、それを正確に解釈するということは、まったく別の能力なのだと思っています。


また、こんなこともありました。新東名高速道路で、誰かが車に轢かれた後、道路に引きずられたような血の跡がたくさん残っているビジョンが突然見えました。そして、その3〜4日後、そのビジョンと非常によく似た事故が実際に起きました。


この頃、私は静岡県の浜松までドライブへ行こうかと考えていました。私は猫を2匹飼っていますが、彼らの故郷が浜松なので、数年に1度くらいの頻度で浜松へ行くのです。その時も私は地図を見ながら、「このあたりを通って行こう」と、いなさジャンクション周辺の地名などを確認していました。そして事故が起きたのは、まさに私が地図を見ながら意識を向けていたあたりでした。


私は先にあのビジョンを見てしまっていたため、何となく嫌な感じがして、浜松へのドライブを取りやめました。すると、その直後、そのような事故が起きたことがニュースになっていました。結局、その事故自体は私に関するものではありませんでした。でも、私がその場所へ行こうと意識を向けていたことと、何らかの関係があったのかもしれません。このあたりは、私にもまだ分からないことがたくさんあります。


そして直近のことなので、かなりハッキリ覚えているのですが、1月8日には突然、「肺が苦しい」「肺炎で死に至る」という言葉とともに、ものすごく苦しそうに咳をしている人のビジョンが見えました。さらに、肺に水が溜まっているような図や、肺が苦しく、呼吸が十分に出来ないような感覚まで伝わって来ました。(すみません、少し怖い感じですが、見たまま&来たままの言葉で書いております。)


この時は、映像だけではなく、かなりハッキリとした「言葉」として情報が来ました。そのビジョンを見た私は、「肺炎などで死に至るなんて、年老いてかなり体力がなくなった時くらいなんじゃないの?」と思いました。誰かそのような状態になっている人に関する情報なのか、それとも私自身の老年期に関することなのかと思って、「嫌なビジョンだな〜」と思っていたのです。


その時の私は、新型コロナウイルスに関する報道をまだ目にしていませんでした。その後、新型コロナウイルスのニュースが大きくなっていった時に、「もしかすると、あの時に来た情報は、このことだったのかもしれない」と改めて思いました。


ただし、ここでも大切なのは、「私に見えた=私自身に必ずそれが起こる」という意味ではないということです。私の場合、こういったものは「未来の確定事項」というよりも、「少し注意しておきなさいよ」という情報として受け取った方がしっくり来ることがあります。

ですから、怖いものが見えたからといって、その恐怖の中へ自分まで入ってしまわないことが、とても大切なのだと思っています。見えたものは見えたもの。自分は自分。情報は情報。この線引きが出来なくなると、センサーが鋭くなるほど、生きることそのものが大変になってしまいます。


感覚が鋭くなるということは、単純に「能力が上がる」ということだけではないのだと思います。受け取れる情報量が増えれば増えるほど、自分自身を安定させる力も同時に必要になります。そして私は、「たくさん見えること」と「その人が成熟していること」は、必ずしも同じではないと思っています。


何かが見えることそのものよりも、見えたものに呑み込まれず、必要以上に意味づけをせず、必要な時には現実的な行動へ変えること。こちらの方が、ずっと重要なのではないでしょうか。


だから私は、自分自身のグラウンディングや、心と身体のバランスというものを、とても大事にしています。センサーが繊細になればなるほど、自分の軸もまた太くしておかなければならない。外側から入って来る情報が強くなればなるほど、内側の「ど真ん中」へ戻れる力が必要になる。最近は、そんなことをますます感じています。


なんだかネガティブな話ばかりになってしまいましたね。


毎年お正月になると、私は夫にだけ、その年について降って来た言葉を伝えています。そして、それをその時点で大々的に公表するのではなく、「さて、1年を通して実際にはどうなるのかな」と自分自身でも見ているのですが、2020年のお正月には夫に、「あ~!嫌だなぁ~!ものすごく嫌な年が始まる~。2020年なんて始まらなければ良いのに・・・。今年は天災云々というよりも、人災だね。まあ、台風がさらに強くなるとか、大雨というのはあるかもしれないけど、何なのか人災の方が強く出てるよ。大変な年になると思う」というようなことを話していました。


もちろん、その時点で私は、2020年に具体的に何が起きるのかを知っていたわけではありません。ただ、何とも言えない「嫌な感じ」だけが、とても強く来ていたのです。


未来に関する情報というものは、必ずしも具体的な映像や言葉として来るものばかりではありません。何かの空気のようなもの。重さのようなもの。方向性のようなもの。まだ現実には形になっていないけれど、「この先、何かが動いて行く」という感覚として伝わって来ることもあります。


そして、そういう時ほど私は、未来を恐れるために情報が来ているのではないのだろうと思うようにしています。もし本当に何らかの「お知らせ」なのであれば、それは恐怖に陥るためではなく、今出来ることをするためにあるのではないでしょうか。


先のことを全部知る必要などありません。むしろ私たちが出来ることは、今いる場所で、自分自身の状態を整えながら、その時その時に必要な判断をして行くことなのだと思います。

不安定な1月もそろそろ終わりますが、さて、2月はまたどうなることでしょうか。ウイルスのことなど色々ありますので、必要な情報はきちんと確認しながら、まずは日々出来る範囲でご自身の身体をいたわっていただければと思います。


身近なところから、日常的に出来ることを行っていくことは、とても大切です。そして同時に、必要以上に不安や恐怖へ意識を持って行かれないように、心と身体のエネルギーのバランスを取ることも心がけていただければと思います。


何かが起きている時ほど、外側の出来事ばかりに意識を奪われるのではなく、自分自身の「ど真ん中」へ戻ること。これは、センサーが鋭い人だけに必要なことではありません。誰にとっても、とても大切なことなのではないかと思っています。 END




 
 
 

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