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短所を消そうとすると、なぜバランスが崩れるのか

  • 2023年11月22日
  • 読了時間: 10分

更新日:5 日前


短所だと思っている性質が、あなたのバランスを支えているかもしれない。


セッションの中でお客様のオーラの詳細を拝見させて頂いていてよく見えて来るのは、自分では短所だと思っている性質が、実はその人の全体のエネルギーバランスを保つ役割をしていることがある、ということです。


私はサイキックリーディングを行う時、基本的に全てを「エネルギー」としてキャッチしており、それを言葉に直してお客様にお伝えしています。


例えば、その人が持っている性質や感情、思考の傾向、人との関わり方、何かに対する反応の仕方なども、リーディングをしている時には、それぞれ異なる質を持ったエネルギーとして感じ取っています。


この場では、それらをそのまま「エネルギー」という言葉で表現しているので、少し伝わりにくい部分があるかもしれませんね。


話が戻りますが、リーディングのセッションでお客様のエネルギーフィールドを深く探って行くと、その人の中で互いにバランスを取り合っている、いくつものエネルギーが見えて来ることがあります。


それらは相反する性質である場合も多く、片方は本人が肯定し、比較的すんなり受け入れることが出来ているのに、もう片方は「これは自分の短所だ」「こんな自分は嫌だ」と否定的に捉えていることがあります。


けれども、その本人が否定的に捉えている部分が、実はもう片方の性質が大きくなり過ぎないように支えている場合があります。そして、その逆も同じです。


ここでいう「支える」というのは、良い方が悪い方を支える、という意味ではありません。そもそも私は、それぞれの性質を単純に「良い」「悪い」と分けて考えていません。一方のエネルギーだけが必要以上に大きくなり、その人全体が一方向へ偏ってしまわないように、異なる性質同士がバランスを取っている、という意味です。多くの人々が、自分の中に相反する性質、または一見すると相容れないように見える性質を持ち合わせていると思います。


それは2つだけに限らず、7つ或いは8つ、または数えきれないくらいあったりして、人によってその数も組み合わせも異なります。


ある場面ではとても強気なのに、別の場面では驚くほど弱気だったり、人との距離を取りたがる自分がいる一方で、誰かと深く繋がりたい自分もいる。


とても現実的な自分と、夢見がちな自分が同時にいたり、慎重な自分と、突然大胆なことをしてみたくなる自分が同時に存在していたりします。


人というのは、必ずしも一つの性質だけで出来ているわけではないのですよね。むしろ、様々な性質が同時に存在しているからこそ、一つの方向だけではなく、状況に応じて違う反応をすることが出来るのだと思います。


例えば、ある人が「何でも相手のいうことを受け入れてしまう性質」と、「プライドが高く、簡単に人を寄せつけないような性質」の両方を持っていたとします。


このどちらか一方を当人が強く否定し、その性質を抑えて、抑えて、出来るだけ出さないようにしていたり、反対に、肯定的に捉えた方の性質ばかりを「これこそが本当の自分である」として表現し続けていたとしたら、その人のエネルギーは次第に一方向へ大きく偏って行くことがあります。


そして、その偏りが大きくなった時、それまで抑え込んでいた相反する性質が、今度は無意識に強く表へ出て来ることがあります。長く押さえつけられていたものが、「こちらも自分なのですよ」とでも言うように、存在を主張し始めるような感じです。


これをシーソーの動きなどを想像して当てはめて頂けると、少し伝わるかもしれませんね。片方だけにずっと体重を掛け続けていれば、どこかで反対側とのバランスを取る動きが必要になって来ます。


仕組みが全く同じという意味ではありませんが、感覚的なたとえとして、あまりにもテンションが上がって陽気な気分になり、何日間もはしゃぎ過ぎた後で、今度は急に疲れて何もしたくなくなってしまう、というような動きにも少し似ているかもしれません。


私はこのようなことも、一つのエネルギーの動きとして捉えています。人の中には常に、極端に傾き過ぎたものをどこかで調整しようとする、「バランスの法則」のようなものが働いているのではないかと思っています。


人もエネルギーで出来ていると捉えれば、大きくバランスを欠いた時には、それを調整し、もう一度全体としてバランスを取ろうとするエネルギーの動きが生じるのではないかと思うのです。


それで例えば、「プライドが高く、人を簡単には寄せつけない」という性質の自分ばかりを表現していた時、もしかするとその人は、もう片方に存在している相反する性質の自分を表現する機会を、少しずつ失って行くかもしれません。


本当は誰かを受け入れたい時にも受け入れられない。本当は誰かに頼りたい時にも頼れない。本当は柔らかく接したいのに、「私は人を簡単には寄せつけない人間だから」と、自分自身を一つの性質の中へ閉じ込めてしまうこともあります。


このような状態が続くと、その性質を持っていること自体が問題なのではなく、「その性質しか使えなくなっていること」が苦しさにつながって行くのだと思います。


人の中に様々な性質があるということは、本来であれば、その時々に応じて使えるエネルギーがいくつもあるということです。必要な時には距離を取り、必要な時には人を受け入れる。必要な時には強くあり、必要な時には誰かに頼る。その柔軟さが失われ、一つの性質だけを使い続けることの方が、むしろ全体のバランスを崩しやすいのではないでしょうか。


そして、その状態が長く続いた結果、ある時突然、それまで抑えていたエネルギーが非常に強く表面へ出て来ることもあります。


出方は人それぞれですが、それまでとは正反対のことを急にしたくなったり、今度は反対側の性質へ極端に傾いているように見えることもあります。


先ほどの例で言えば、それまでは人を寄せつけない自分ばかりを表現していた人が、今度は突然、「他人のいうことを何でもかんでも受け入れてしまう」という性質の自分に偏って表現し始める、というようなことです。


これは、自分の中に突然別人が現れたのではなく、もともと自分の中に存在していたもう片方の性質が、それまでほとんど使われる機会を与えられていなかったために、強く表面へ出て来たのだと私は捉えています。


また、「プライドが高く、人を簡単には寄せつけない」という性質を肯定的に捉え、「他人のいうことを何でもかんでも受け入れてしまう」という性質を否定的に捉えていたとします。


そして前者の自分ばかりを長く表現していたなら、その性質が必要以上に大きくなり、極端な方向へ進んだ場合には、人に対して必要以上に高い壁を作ったり、人を簡単には認められなくなったり、誰のことも自分の内側へ入れなくなってしまうような方向へ傾く可能性もあります。


けれども、その人の中には同時に、「他人を受け入れる」という反対側の性質も存在しています。


もしかすると、「他人のいうことを何でもかんでも受け入れてしまう」という、一見すると本人が短所だと思っている性質があるからこそ、もう片方の「人を寄せつけない」という性質が極端になり過ぎないように支えられているのかもしれません。つまり、本人が「なくしたい」と思っている性質が、実は自分の別の性質を適度なところに保つために役立っていることもあるのです。


私は、人がこうして相反するような性質を同時に持って生まれて来ることにも、何か意味があるのではないかと思っています。一つの性質だけを完成させるためではなく、それぞれの性質を経験し、それらをどのように扱って行くのかを知ることも、魂の学びの一つなのではないかと思うのです。


成熟するということは、自分の中から好ましくない性質を一つずつ消して行くことではなく、自分の中にある様々な性質を理解し、「今はどのエネルギーを、どのくらい使えば良いのか」を自分で選べるようになって行くことなのかもしれません。まあ、ここでは分かりやすくするために、2つの性質について、それぞれかなりオーバーな表現で書きました。


けれども、「プライドが高く、人を簡単には寄せつけない」というエネルギーについて、少し違う見方をしてみれば、それは必ずしも悪い性質とは限りません。


簡単には人になびかない。自分の世界を持っている。一定の距離を保つことが出来る。誰にでも自分を安売りしない。そのような性質として現れれば、「高嶺の花」だとか、「憧れの存在」などと捉えることも出来るかもしれません。


反対に、「他人のいうことを何でもかんでも受け入れてしまう」というエネルギーについても、別の角度から眺めてみれば、受容力がある、おおらかである、柔軟性がある、人に対して優しい、相手を受け止めることが出来る、と捉えることも出来ます。


少しくらいのことなら「まあ、いいか」と流せるような、良い意味での「ゆるさ」として現れることもあるでしょう。つまり、同じ性質であっても、その性質をどの程度の強さで使うのか、どのような場面で使うのかによって、現れ方は大きく違って来るのです。


性質そのものが問題なのではなく、その性質が「どのような状態で使われているか」ということの方が大切なのだと思います。これは単なる一つの例ですが、その他にも色々な性質の組み合わせで、多くの人々が相反する性質を自分の中に持ち合わせている事と思います。


中には、このような内側での葛藤がほとんどない人もいると思いますが、自分の中に「どうして私はこんなに矛盾しているのだろう」と感じる部分を持っている人は少なくないのではないでしょうか。


ですが、私は、その矛盾そのものが悪いものだとは思いません。むしろ、一つの方向へ極端に傾いてしまわないために、異なる方向を向いている複数の性質が同時に存在していることもあるのではないかと思っています。「矛盾している」というよりも、自分の中に複数の方向へ動けるエネルギーがある、と捉えてみても良いのかもしれません。


どちらの性質も、自分の中に存在しているエネルギーです。そして、それは決して不要なものではありません。その性質を見ている自分自身や周囲の人が、単にそこへ「良い」「良くない」「長所」「短所」というレッテルを貼っているだけで、本当は、その性質そのものに絶対的な「良い」「良くない」が存在しているわけではないのかもしれません。


ある場面では短所に見える性質が、別の場面では自分を守ってくれることがあります。ある場面では長所として働いている性質も、それが強く出過ぎれば、自分自身を苦しめることがあります。


ですから大切なのは、その性質を持っているかどうかではなく、それをどの程度使っているのか、どのような場面で使っているのか、そして他の性質とのバランスがどうなっているのか、なのではないでしょうか。


もし、自分の性質に社会的な定義を当てはめ、「これは良い自分」「これは良くない自分」とレッテルを貼り続けているのだとしたら、自分自身が少し可哀想だと思いませんか。


他人が人にレッテルを貼りたがるのを止めることは出来ません。ですが、せめて自分自身だけでも、自分に対して行っているレッテル貼りを少し止めてみるのはいかがでしょうか。

「この性質をなくさなければ」と考えるのではなく、「この性質は、私の中でどのような役割をしているのだろう」と考えてみる。


そうすると、それまで短所としか思えなかったものが、別の自分を支えていたり、自分を守っていたり、自分全体のバランスを取るために必要だったことに気づく場合もあります。


そして、その性質が少し強く出過ぎているのであれば、なくしてしまう必要はなく、その強さを調整すれば良いのです。反対に、長い間ほとんど使って来なかった性質があるなら、それを少しずつ使えるようにして行けば良いのだと思います。


自分を変えるというと、「今の自分の何かを消して、別の自分にならなければならない」と考える方もいるかもしれません。でも本当は、自分の中にすでにある様々なエネルギーを、より適切に使える状態へ整えて行くこともまた、大きな変化なのだと思います。


エネルギーの視点から見ると、多少バランスが取れていないものがあったとしても、自分の中にあるものは、どのようなエネルギーも大切なエネルギーです。必要なのは、そのエネルギーを消してしまうことではなく、必要に応じて強さを調整したり、使い方を変えたりしながら、自分全体の中でバランスさせて行くことなのだと思います。


自分の一部分を嫌って切り捨てるのではなく、「これも私の中にある大切なエネルギーなのだ」と一度受け入れた上で、どう活かして行くのかを考えてみる。その方が、自分自身との付き合い方は、ずっと穏やかで自由なものになって行くのではないでしょうか。


バランスが取れていない部分は、調整してバランスさせることも可能なのですから。 END




 
 
 

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